富士山は日本が世界に誇る平和の象徴

(日経「春秋」2013/7/2付) 富士山は誰のものなのか。静岡県庁にたずねると、8合目から上は神社の富士山本宮浅間大社の敷地なのだそうだ。富士山の山頂部の持ち主の変遷は、争いの歴史である。江戸期の初めまで駿河と甲斐の国が一歩も譲らず、徳川家康の裁定によって浅間大社に与えられた。明治維新で国の所有となったが今度は国と浅間大社の間で裁判が始まる。現在の形に落ち着いたのは、ようやく1974年(昭和49年)に最高裁判決が出てからである。大切な場所であるほど、いざこざが起きやすい。南シナ海もそうだろう。ブルネイで開いた外相会議では、中国が海上活動のルールづくりに合意したが、どれほど本気なのかは分からない。力に物を言わせた実効支配の思惑が見え隠れする。富士山の所有権は流転したが、それで何かが変わったわけではない。山頂部の不動産の登記書類も実際には存在しないそうだ。頂上の施設は分担して静岡県山梨県に税金を納め、事件が起きれば両県の県警が協議で担当を決める。力ではなく話し合いによる問題解決。やはり富士山は日本が世界に誇る平和の象徴である。
(JN) 場所の所有権はどうしてその人、団体、国等になっているのか。そこには歴史があるのであるが、その解釈が関係するところの事情により違ってくる。人はものを自分のものとして独占したがるゆえ、所有権が問題なるのである。それを力ずくでは喧嘩になり、これが国家間なら戦争になってしまう。関係者が互いに同じ神様でもあれば、話し合いもできようが、国と国はそうはならない。残念ながら富士山の力は海外にまでは影響できない。我々はもっと賢くならねばならないはずなのに、寂しい限りである。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO56870050S3A700C1MM8000/